モーターサイクル・ダイアリーズ

20世紀で最もラリってる感じの哲学者であるジル・ドゥルーズは『記号と事件』か『ダイアローグ』か、はたまた『ミル・プラトー』かなにかで次のようなことを言っていました。「旅というのはな、行って帰ってきてアー楽しかったァーとか、そういうものじゃないんだよ。旅というのは、行ったら二度と帰ってこれないんだよ」。われわれはいそいそと労働をしつつ溜まったカネで四季折々の観光名所や常夏の楽園に急いで行って急いで帰ってくるという「旅行」をしているわけですが、それはまるで蓄積された労働の疲れを癒しに行くという経済的目的を持っていたり、ひどいときは職場に花咲く思い出話を生産するために行くかのようです。
モーターサイクル・ダイアリーズ』において「20代最後のバケーション」というありがちな目的を持って「旅行」していた二人の若者は、さまざまな「出来事」を「処理」するのではなく「取り入れる」ことによって、見事に「旅行」を「旅」に変質させることに成功しました。その結果、当然もはや「二度と帰れない」ので、若者の一人は旅の途中で見た光景とともに、その地に留まることを選択しました。もう一人の若者は故郷のアルゼンチンに帰ったあとにすぐまた海外へと飛んでいき、もはや二度と帰ることはありませんでした。すでにこの旅において「エルネスト・ゲバラ」は、のちにそう呼ばれることになる「チェ・ゲバラ」へと変身していたからです。

あの夏、いちばん静かな海

あの夏、いちばん静かな海。 [DVD]

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 北野武監督作品です。耳の聞こえない男がサーフィンして死ぬ映画です。生粋の横浜生まれなので、何をするわけでもないのによく湘南の海に行きます。時には海に入ってみたりもしますし、ただ眺めるだけだったりもします。とはいえ海が好きかといわれるとそうでもなく、どちらかというと「行きたくないのに行きたくなってしまう場所」という印象があります。よく似た感覚として、恐いものを、みたくないのに見てしまう、というのがあり、最近はこれは軽い死の衝動なのではないかと考えるようになりました。
 人は海に行くと死にます。人はどこでも死ぬので当たり前のことをいっているのですが、それでも海は他の場所よりもいくぶん死に直結しているような気がします。この映画もそうで、ほとんど音声らしきものがないまま、ただ海に人が吸い寄せられていきます。海は人を死においやるとき特別な音を立ててはくれないので、ただ地球が開始した瞬間の衝撃の残滓を波に変換し続けて人をどんどん沖へと追いやります。
 大学生のときは音の聞こえない世界ってどんなもんかな、とずっと考えていました。知り合いがそういう感じのことをやっていたこともあって、いくつか手話を覚えたりもしました。ただ何やら音の聞こえない世界は音のない世界とは違うようです。そう思ったのはリチャード・ファインマンという人の小説を読んだときで、彼がダンスパーティに行ったら、そこは耳の聞こえない人のダンスパーティだった、というものです。彼らがどうやって踊っているのかというと、音で、というか足に伝わる振動で踊っているのだそうです。かたやライブのライブ感なるものはありとあらゆる「雑音」つまり無駄な空気の振動によって成立します。いかようによっても変わるわれわれの「聞く」感覚というものがある。だから僕らが例えば耳を塞いだり耳栓をつけたりして街を歩いたとしても、それは耳の聞こえない人の不便な部分を体験するだけで、音の聞こえない世界そのものを体験することはできないんじゃないか、と思いました。
 ここまで書いて、やっぱりこの映画の主題は波だったんだな、と思いました。それも声のようにコード化された波ではなく、潮騒のような荒々しい波です。

SICKO

シッコ [DVD]

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すごくシンプルな話として、第二次世界大戦後は「個々人が競争すれば社会はもっともよくなる」という資本主義と、「個々人が協力すれば社会はもっともよくなる」という社会主義のふたつに分かれるのではないかと思います。結局資本主義が大勝利をおさめたわけですが、この映画では、そんな資本主義の弊害みたいなものが描かれています。医療制度が資本主義に毒されてるせいでアメリカは第三国より寿命の短いひどい国であるということを盛んに言います。

マイケル・ムーアはとことんアメリカをこきおろすわけですが、それでも締めくくりとしてやはり「俺たちのアメリカ」というひとつの観念を崩すことがありません。どんなに挑発的なことを言っておいてもやはりこの人はとてもしたたかであり、「何がアメリカ人にとってもっとも効果的か」ということをちゃんと心得ています。

アメリカはやはり独特の国です。彼らが大多数共感する言葉として、「白人も黒人も、ヒスパニックも関係ない、俺達はアメリカ人だ」というのがあります。日本人はとにかく肌の色が疑いなく強力な同化の装置として機能するわけですが、アメリカ人は「アメリカ」という言葉に対して同化するわけです。僕はそんなアメリカの隣にあるカナダに住んでいたのですが、カナダはちょっと違った感じがしました。僕は特にさまざまな人種が混在し、それぞれの街を形作るトロントという街にいたのですが、「住み分けている」という印象のほうが強かったです。あまり変に同化する感じがなく、その分なんだか非常におっとりしている感じがしました。

この映画ではそんなカナダの医療制度を、アメリカのそれと比較しています。カナダはなんと医療にかかる個々人の負担分がゼロとのこと。やはり住むならカナダだな、と思いました。

アキラ

AKIRA 〈DTS sound edition〉 [DVD]

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 昨日はテレビでジブリの映画をやっていたそうですが僕は見ませんでした。今「みません」とうつとき「みせまん」と打ち間違えましたすみません。
 ジブリ映画にはいくつものメタファーが隠されているというのはよく聞きます。例えば有名なのは『となりのトトロ』で、「さつきとメイは死んでいた」というもので、ジブリマニアたちは日々あの牧歌的または幻想的な映画を眺めては背後に暗い影を見て取っているのだと思います。
 というかメタファーってなんだろうと思うのですが、日本語だとたぶん「隠喩」だと思います。隠された意味、みたいな。けど僕がジブリマニアを非常にくだらないと思う理由は、メタファーを掘り起こしてそれでおしまいにするところです。さつきとメイが死んでいたからといってなんなの……と思うのですが、戦争がどうたらとかいろいろ言われましたが今一つピンとこなかったです。
 僕の知り合いはその点とてもシンプルな人で、一緒に『崖の上のポニョ』を見たときに、それらのオブジェクトをひとつひとつ精神分析のオブジェクトに変換していっていました。たとえば「船」は「おちんちん」の象徴で、ポニョ=女の子がソウスケ=男の子のもっている船=おちんちんを「大きくする」というものです。彼がその意味の置き換えをやりたい理由はただひとつで、自分の愛する精神分析の理論=フロイトの夢=大いなる物語を全方位へと拡張せんとする、シンプルな欲望のためです。そのためには映画に登場するありとあらゆる家族はオイディプス関係(パパ、ママ、ぼく)へ回収され、そうではない家族はそれに見合った欠陥を見出されるわけです。

 今日見たAKIRAにもメタファーがいくつも隠されているらしく、例えばタイトルのAKIRA黒澤明だとかいろいろあるらしいのですが、めんどくさいので僕は考えていません。「弱いやつが突然強い力をもつと濫用するよ」という映画でした。このモチーフは非常にありふれていると思うのですが、いまだに尽きることのない人気をもっていると思います。個人的には、鉄男のことを好きなのにちょっとしか登場しないしやっと登場したと思ったらすぐ殺された女の子がかわいそうでした。

 ざっと考えたのですが、鉄男の能力はなんだろうと思ったとき、たぶん重力を自由に操る能力なんじゃないのかな、と思います。だからレーザービームが効いたんだと思います、光はあんまり重力と関係ないからです。

 あと宇宙に意志があるかという話をしていたのですが、これはあまりピンとこなかったです。生命の誕生と宇宙の誕生はあんまり関係ないからです。例えばある地球物理学者がいうに、「生命」というものは時間の尺度に過ぎない、というのがあります。例えば1年を1秒に縮めて再生するビデオでこの大地を撮影すると、まるで木が活発に動いているように見えるはずです。そして10年を1秒に縮めるならば、人間は単なるノイズ、たとえばあっという間に増殖してあっという間に朽ちていく細菌のように見えるはずです。そして、1万年を1秒に縮めるならば、今度は大地そのものが動き出します。まるで生きているように、です。
 そこではそもそも「生命」があやふやなので、当然「意志」もあやふやになるんじゃないかと思います。あやふやというのもあやふやなのでなんとか言葉を置き換えたいのですが、要するに、「意志が意志そのものを意志できるか」というようなことを考えました。おそらく「宇宙に意志があるか」でYES/NOを答えるより、こういう問いのほうが面白いんじゃないかな。

長くなってしまいましたが、いくつものモチーフをもってて面白かったです。また見たいと思える映画でした。

小早川家の秋

小早川家の秋 [DVD]

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小津安二郎の映画を初めて観ました。こういう巨匠の映画監督の映画はいつも「よく分からなかったらどうしよう」という気持ちにさせられるし、おそらくよく分からなくても「ん?あれね、観たよ」と物知り顔で言いそうなので怖いのですが、この映画はよく分かりました。年甲斐もなく遊ぶおじいちゃんが家族とケンカして死ぬ話です。
物知り顔で難しい話をすると、画面に出てくる四角の数が非常に多く、確かに「奥行き」みたいなものが広がってました。映画好きな人々はたぶんそういうところを見るんだと思います。そういう話を聞きながら「ふんふんなるほどね」とうなずいてみせるのも大事です。
結論としては、けっこう面白い、と思いました。僕はとにかく1.ハッピーエンド 2.テンポが早い を満たしていればとりあえずなんでもいいのです。
あと今日は『いぬのえいが』を恋人と見たのですが、自分がひたすら泣いた記憶しかありません。映画であんなに泣くことはないので、やはり『いぬのえいが』は偉大です。

欲しい!欲しい!欲しい!

MacBook Air 11インチ欲しい!


ということを言いたいがために更新しましたすみません。ちょっと忙しくてブログがさっぱり更新できません。一応小津安二郎黒澤明x2が手元にあるのですが……。といいつつ誰が見ているんだという話ですね。一応MacBookAirは研究室にあるのですがマックが使いづらいらしくなかなか使ってもらえず、Airはその真価を発揮することなく「小さいパソコン」扱いされている状況だと推察されます。ネットブックじゃねーんだ!Airは一つの作品なんだ!と言いたいところですが僕が研究室の人とビートルズ最初期ライブ映像を見たときは「画面ちっさ(笑)」とすぐに放り出して普通のMacBookで見ていました。Airすみません……。

レインマン

自閉症もしくはサヴァン症候群をもつ兄レイモンド(ダスティン・ホフマン)と弟トム・クルーズが兄弟の絆を深めながらラスベガスで金儲けする物語です。
ダスティン・ホフマントム・クルーズもさることながらトム・クルーズの彼女を演じるバレリア・ゴリノという女性も特徴的です。強いイタリア訛りの英語を話すのですが、それがトム・クルーズの「無理解」に接続される形になっています(「私には嘘ばっかりつく」等)。いかにもアメリカらしく、「障害者」と「異人」は同じ「マイノリティ」なので、「理解する」ことがそれらの垣根を越える線です。最後にトム・クルーズは「心が通じ合った」と言うのですが、それにもかかわらず兄弟が再び引き裂かれるようにして映画が終わります。
僕と友人の大好きな『フォレスト・ガンプ』と比較しても面白いのですが、『フォレスト・ガンプ』の主人公フォレストはちょっと抜けたところが人々の共感を呼び、極めてハッピーになるように描かれています。それに対して『レインマン』のレイモンドはバレリア・ゴレノ以外ほとんど誰にも理解されず、長年連れ添った医者にも「レイモンドは自分でものが決められない」と言われます。僕はフォレストもレイモンドも両方「アメリカ的」だなと思っていて、かたや異邦人に対する歓待の精神がありながら、かたや「個人」というものすごい他者との壁を作り上げる装置もあります。例えば日本人は日本語能力が乏しい人に対してゆっくり丁寧に話しますが、アメリカ人はものすごい量の言葉を話して理解させようとします。もちろん覇権的言語ということもあるのですが、「理解」という言葉に対する地理的差異も相当なものがあるのかもしれない、と思いました。
映画としては本当に面白く、演技は素晴らしく、展開に飽きることもなければついて行けないこともなく、割とハッピーエンドです。何度でも観たい、と思わせる映画でした。面白いこと言えずすみません。